豊かな緑と歴史文化に彩られた神戸市北区の淡河町(おうごちょう)。
知的障がい者の更生施設、社会福祉法人上野丘さつき会が『神戸米っこ物語』誕生の舞台です。
南は丹生、帝釈等の山々があり、北は起伏の多い丘陵地。東西に流れる淡河川の流域に広がった平野が淡河の町です。
春は鴬が鳴き、夏は蛍が飛び交い、秋はもみじに包まれ、冬には山茶花の開花を待つ、四季の移ろいが美しい自然の環境に恵まれたこの地に、社会福祉法人上野丘さつき会の更生寮があります。
淡河町(おうごちょう)には、孝徳天皇の勅願所、651年に法道仙人の開基によるものと言われる、山号「岩嶺山」石峯寺(しゃくぶじ)の薬師堂、三重の塔(国指定重要文化財)など歴史ある社寺があります。
遺跡より縄文時代の石器、奈良時代の土器が採集されるなど(土地改良に伴う発掘調査から得られた資料による)、淡河八幡神社の御弓神事と御旅神事、北僧尾の農村歌舞伎舞台などの民族文化芸能も豊富な土地であります。
江戸時代には湯ノ山街道(有馬温泉)の宿場町として栄え、奈良、京都との文化の交流もあったといわれる歴史を背景にしています。
昭和42年、上野丘学園創始者の初代理事長が、淡河町東畑に約13,200㎡の土地を自費で取得。自ら鎌と鍬をとって整地に携わり、障がい児施設の建設にのりだします。
建替えられる地元小学校の古い木材を再利用して、園舎も立派に完成。
翌年8月には障がい児施設「社会福祉法人上野丘学園」が開設しました。
谷川の水を1000m程のホースで導水する工事、土地の測量、山の下草刈りなど、ライフラインの整備は現理事長と園児たちの手によって行われました。
山の奥へ奥へと開墾が続く中、始めたのが、梅や椿、さつき等の植林と、トマトやスイカなどの農作物の栽培です。
昭和56年4月。新たに知的障がい者の更生施設として「上野丘更生寮」を開設。
職業体験などを経験しながら自立を目指す、この寮で生活する障がい者さんたちを私たち職員は「利用者さん」と呼んでいますが、その利用者さんたちの職業指導の一環として農作業が取り入れられました。
私たちの米作りの始まりです。
鎌の持ち方、鍬の入れ方、一輪車による運び方など農具の使い方をひとつひとつ身体で覚えていきました。稲穂が太陽の光を浴びるとまばゆく輝くように、利用者さんたちも、おてんとさまのもとで日光浴をしながら作業をすることで輝きを放つようになっていきました。
事業当初の耕作面積は1町(1ha )ほど。
施設からすぐの東側に位置する耕作地で「日本晴」(昭和時代後期に日本で最もよく多く栽培された品種であり有名銘柄米の一つ)や「やまびこ」などの品種を作りました。
その後、時代の流れと共にいろいろな品種にチャレンジし、現在は「キヌヒカリ」を栽培しています。
その活動が認められ、私たちは新しい農業の担い手のひとつとして地域から頼りにされる存在になりつつあります。
近隣農家の高齢化に伴って増え続ける耕作放棄地の有効活用として、地域からの耕作依頼は年々増え、また、神戸市の進める復旧事業に協力する形で10町(10ha)ほどを営んでいます。
そんな中、私たちの米を使って、米粉を作ってみないかというお話をいただきました。
米粉を開発するにあたり、私たちは、私たちが普段から行っている、福祉と農業の活動に加え、開発した商品を消費者に届ける「商」の力が必要と考えました。
そこで、地域の他の2社と連携し、「農(農業)+商(商業)+福(福祉)」のトライアングルで地域連携をとりながら開発をすすめ、生まれた商品が『神戸米っこ物語』です。
そのような取り組みが認められ、『神戸米っこ物語』は「こうべ農漁業ネクストステージチャレンジ事業」の商品にも選ばれました。
農業を衰退させることなく次の世代につないでいくためには、時代の流れに融合させ、消費者ニーズに合わせていくことが大切です。
米粉を食生活に取り入れていただくことにより、今までにない食べ方でお米の消費が拡大し、日本の食料自給率の向上や環境保全などにつながる可能性も期待できます。
私たちは、淡河の先人たちから伝えられた大きな産物、地域にあるものを見つめながら、「新たな商品づくり」にチャレンジし続けます